三代目と「上方落語四天王」

去る1月9日に敬愛する三代目桂春団治師が亡くなられ、14日にその報が流れた。

仕事中ではあったけど、急いで落語別館サイトの扉絵を差し替え、自分なりの哀悼の意を表した。

 

"三代目"春団治師。同時代を生きた人として、いや、過去現在を通じて、好きな落語家さんのトップであった。

全身これ様式美というような華麗な高座姿と心地よい口調にナマで触れたくて、東京在住時、三代目が東京で落語をやると知ると結構な頻度で通っていた。

初めて観たナマ高座が2001年11月のイイノホール「桂春団治一門会」。演目は『お玉牛』。

翌年の同じ一門会では『皿屋敷』。その後よみうりホールで「東西落語研鑽会」が始まって、東京で年に数回は必ず三代目の落語が聴けた。そこで『親子茶屋』『いかけや』『野崎詣り』あたりを聴いたと思う。


2005年4月7日、林家正蔵襲名披露興行で新宿末広亭にゲスト出演なさった際は、仕事もそこそこに夜席の列に並び、運よく上手桟敷席に陣取ることができた。
座りながら「声を掛けたいけど、正蔵師匠の記念興行でゲストに声を掛けるのって失礼かな…」と迷っていた。と、番組表では仲入り後の口上の後だったはずなのに、そのずーっと前の仲トリ前という出番でいきなり三代目の出囃子「野崎」が聴こえてきて、下手から白い着物の三代目が登場。さらに自分のすぐ横にいた客が絶好のタイミングで「待ってました!」と声を掛けた。考える間もなく自分も続けて「三代目ッ!」。
その日の『代書屋』の高座は、一生忘れまいと懸命に脳裏に焼きつけた。

 

2007年の横浜にぎわい座での上方落語会でも『親子茶屋』を観て、この時は座布団の縁に扇子を置こうとしたらパタリと落下、ということが延々あって、すごくやりづらそうにしていた光景を二階席から目撃した。

そして2010年1月に日経ホールであった春風亭小朝師との二人会の『祝いのし』が、私のナマ三代目のラスト。ちょうど6年前かぁ。
その後、ブログで演芸記事まとめを毎週やっていた頃、たびたび入院の記事を見かけては一人気を揉む日々であった。

「上方落語四天王」では、六代目笑福亭松鶴師はまったく間に合わず、先代文枝師は亡くなる一年前に出かけた「研鑽会」に出演されていたものの、客席の位置が悪くて高座の文枝師がまったく拝めず、ほぼ声だけ。こんななので演題もよく覚えてない。『三枚起請』だったっけ。

米朝師は2001年に名古屋アートピアホールの「米朝独演会」と、2006年の前進座劇場の親子会の二度だけ。前者は周囲の客の質がめちゃめちゃ悪くて会自体がよい思い出にならず、後者は米朝師がマクラで「最近ボケだしまして…」と必ず口にするようになって以降の、往時とは別人の高座。その日以降米朝師のナマ高座は見ていない。
そんな経緯もあって、唯一四天王の落語をちゃんと記憶に留めておきたい!との思いから、余計に熱が上がったのかもしれないなー、と自己分析しているが、とはいえ上方落語の歴史の上では未来永劫忘れられない存在だったのは衆目一致するはず。
とりわけ、ガキ時分の私にとってTVの落語といえば、寄席中継に出ていた松鶴師か春団治師。たまに米朝師と小文枝師(当時)であった。まだ枝雀師を知り、落語という芸に深くのめる前のこと。自分の落語好きの下敷きを作ってくれたのは、東京の落語家さんたちではなく上方の四天王だったのだ。

その四人が全員いなくなってしまったのは、やはり寂しいし、残念なことだ。
幸い、落語をとりまく環境がかつての何倍も風通しよくなったのを、米朝師や三代目は見届けて彼岸に発たれた。それだけはある意味心の拠り所かもしれない。

(新星出版社『落語まんが寄席』より)